米麹と糀の表記について
日本酒の原料は、お米と米麹、水です。
麹という漢字が示す通り、麹は「麦」です。古代中国では麦で麹をつくることが多かったため、「麦」の字があります。 日本では米で作ります。蒸米に麹菌が付くと、その胞子が米に花が咲いたように見える様子から、江戸時代に「米」と「花」を合わせた「糀」という字が作られました。米麹=糀です。
ここでは、米で使われるのを糀、それ以外を麹と表記します。
国菌
国花は桜、国鳥はキジ、国歌は鳥の歌君が代です。
日本には国菌もおりましてそれが糀菌です。
糀菌は、2006年に日本醸造学会によって認定されました。学術的には「アスペルギルス オリゼ」というカビの一種で、黄糀菌・黒糀菌・白糀菌と種類があります。
日本酒には主に 黄糀菌を使います。
黒糀菌は沖縄で泡盛に使われていて、黒糀菌から突然変異で別れたのが白糀菌です。白糀菌は焼酎によく使われています。
和食にとって欠かせない醤油、味噌、日本酒、みりん、米酢などの製造も、すべて糀から始まります。
さらに、古来から日本人の食文化の中心だった糀菌は、素晴らしい健康・美容効果がもあるのです。
糀にはビタミンB1・B2・B6などの必須ビタミンがたっぷりと含まれています。ビタミンB2は、皮膚や粘膜を保護してくれる働きやお肌の代謝を助けてくれる働きもあります。
そして、コウジ酸はシミの原因となるメラニン を生成する酵素(チロシナーゼ)を抑える働きがあります。その結果、高い美白効果が期待できるのです。 また、シワやたるみを引き起こす活性酸素や炎症の発生を抑える作用もあるとされています。
ほかにも、糀菌は、新陳代謝とコラーゲンの生成を促し、健康的な肌に導いてくれる強い味方になってくれます。糀菌はほかにもリラックス効果があったりと、体にうれしい効果がたくさん。
こんなにもいい影響がある糀菌。これは利用しなければ損です。
ちなみに、平成24年5月に日本を代表する酒として日本酒・焼酎を「國酒」に制定しています。
最近なんですねぇ。国ではなく旧漢字の國ですからね。間違えないように。
日本酒の起源はいつ?
まず、稲の歴史についてみてみましょう。
イネは、中国南部の雲南(うんなん)~ラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれたとされています。
そこから北の方に広がっていったのが、寒さにつよいジャポニカという種類(しゅるい)のイネです。中国などの温帯での栽培(さいばい)にむくイネです。
南に下って、インドや東南アジアに広がったのがインディカという種類になりました。湿度と気温が高いところ、雨季(うき)と乾季(かんき)がある気候での栽培にむいています。
そしてインディカとおなじく南に広がり、熱帯の高地でつくられるようになったのがジャバニカという種類のイネです。寒さにつよく、乾燥(かんそう)した土地でも育ちます。
やがてイタリア、アフリカの地中海沿岸(えんがん)、マダガスカル、南米にまで広がっていきました。
今の「日本のお米」であるジャポニカ米の栽培は、中国大陸の長江の中・下流域で始まったとされています。
稲作の日本への伝来と伝播は
・長江下流から直接海を渡ってきた。
・台湾を経由し沖縄などの島伝いに来た。
などの説が有力です。
※朝鮮半島は、寒すぎてイネが育たない(朝鮮半島北部は北海道と同じ亜寒帯)ので、そこから日本へは伝播しないと考えられる。
日本酒の歴史は、当然稲作が日本に伝わった時期以降になります。
縄文土器にプラントオパール(イネがあった証拠)が発見されていることから、現在では縄文時代中期には米作りが始まっていたのではないかとも考えられるようになっています。
なので、その頃にはお酒が造られていた可能性があります。
およそ2000年前の弥生(やよい)時代中期には、本州の一番北(今の青森県あたり)でも、イネがつくられていたようです。北海道は一番遅く、明治時代に「中山久蔵」さんによる寒さに強い品種とその育成法の開発によってやっとつくられるようになりました。
神聖な醸造「口噛みノ酒」
日本酒は、九州・近畿などの西日本に起源があるという説があります。「大隅国風土記」に記された酒の記述が、米を原料とした酒の最古なのではと考えられています。加熱した米を口の中でよく噛み、唾液に含まれる酵素で糖化し、野生酵母によって発酵をすすめる「口噛みノ酒」です。
「ビワハヤヒデ」の口噛みニンジン。こんな感じで作る。
口噛みの作業を行うのは、神社の巫女のみに限られていました。日本酒は、神のために造られ始めたといわれています。
神話に残る「八塩折之酒」
現存する日本最古の歴史書である、古事記や日本書紀の中にもお酒は登場します。スサノオノミコトが八岐大蛇(やまたのおろち)を倒すために造らせたお酒です。
ただし、この神話に出てくる「八塩折之酒(やしおりのさけ)」原料は米ではなく、木の実や果実などを使用したのではないかともいわれています。米が使われる前から醸造の技術があったのか、その発祥地も謎のままです。
日本酒の歴史は、日本の米文化の歴史
弥生時代の農具のほとんどは、木製品でした。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足(おおあし)によって田んぼに踏み込まれました。
籾(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取りました。脱穀(だっこく)には、木臼(うす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されました。
お米は貯えることができたため、その貯えの多さによって、貧富の差が生まれました。農業に必要な治水、灌漑(かんがい)などの共同作業のために村ができ、それを統率する首長があらわれました。村などの共同体ができると、律令(ルール)ができました。
村同士は戦ったり、協力したりしながら、より大きな村になり、やがて小さな国になっていきました。
米経済の始まり
紀元後3世紀の日本には30の国があり、その一つが女王卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国(やまたいこく)だったと伝えられています。
国々はやがて統一されて「日本」という大きな国がつくられていきます。お米は日本の社会の基礎となりました。
稲作が全国的に伝播すると、田に対する税として米を納める制度が出来上がりました。納められた租は新嘗祭(にいなめさい)といった宮中における祭祀とともに、宮中に仕える人びとの給与や食料として用いられました。現代でいうと公務員の給料ですね。
新嘗祭とは
新嘗祭とは毎年11月23日、全国の神社において行われ、「新」は新穀(初穂)、「嘗」は御馳走を意味し、天照大御神(あまてらすおおみかみ)はじめすべての神様に新穀をお供えして、神様の恵みによって新穀を得たことを感謝するお祭りです。
五穀豊穣を祈願した2月17日の祈年祭と相対するお祭りで、この日、宮中では天皇陛下が感謝をこめて新穀を奉るとともに、御自らも召し上がります。
新嘗祭の起源は古く、「古事記」にも天照大御神が新嘗祭を行ったことが記されています。今は新嘗祭から勤労感謝の日へと呼び名は変わっていますが、「収穫を祝い感謝する」という本来の意味は変わってはいません。
※勤労感謝の日と聞くと「働いている人に感謝」と勘違いしてしまう。注意。
話をお酒に戻します。
8世紀前期にまとめられた「播磨国風土記」には 「神様に捧げた強飯が濡れてカビが生えたので、これで酒を造った」と記されています。
奈良時代初期、周の時代の中国で開発された糀による酒造りを百済から帰化した“須須許里”(すすこり)が伝承したと古事記に記されており、これにより、糀菌を使った醸造法が普及し、造酒司(さけのつかさ)という役所が設けられ、計画的な酒造りが行われていました。
平安時代初期に編纂された『延喜式』(えんぎしき)には「米」「糀」「水」で酒を仕込む方法、さらにはお燗に関する記載がされています。
平安末期から鎌倉、室町にかけ、都市化が進み、商業が盛んになるにつれ、米と同等の経済価値を持った商品としての酒が流通します。朝廷の酒造組織にかわって寺院、神社が酒を造るようになり、京都を中心に造り酒屋が隆盛し始めました。
『御酒之日記』(ごしゅのにっき)によると、今でいう糀と蒸米と水を2回に分けて加える段仕込 みの方法、乳酸醗酵の応用、木炭の使用などが、明確に記されています。
この頃に現在の清酒造りの原型がほぼ整ったことになります。
安土桃山時代には、大桶を作る技術の完成し、瓶や壺で少量ずつ仕込んでいた頃よりも、生産量が飛躍的に増大しました。 また、この時代には異国文化の到来と共に、蒸留技術が伝来し、日本における蒸留酒(焼酎)造りの原形ができました。
江戸時代には、冬期に仕込む「寒造り」が最も優れていることが明らかになり、優秀な酒造りの技術集団の確保がしやすい時期であることと、低温・長期発酵といった醸造条件の上からも重要視されるようになりました。
また、保存性をさらに高めるための火入れ法(低温殺菌法)や、歩留りを良くすると同時に香味をととのえ、火落ち酸敗の危険を低くする柱焼酎の混和法(アルコール添加)など画期的な処理技術が開発されました。
酒造用水の水質の重要性が広く知られるようになり、鉄分が少なく、有効ミネラルに富んだ水が重要であるとされました。
江戸中期、海運の発達や問屋組織の確立と共に、酒造りが巨大産業へと発展していきます。最も台頭してきたのが灘の酒であり、樽廻船という船に積み込み江戸へ運ばれ、庶民の絶大な人気を誇るようになったのです。
明治時代~
新政府のもと富国強兵策がとられ、国は税金の収集を強化し始めます。「酒税」もその対象となり、自家醸造が「密造」とされ完全に禁止になります。
それまで木樽や小壺に入れ量売りをされていた酒ですが、明治19年にビン詰めが行われ始め、明治42年には1升びんが開発されます。同時期に、速醸法が編み出され、国立の醸造試験所が開設。化学理論が酒の製造に不可欠の要素として広く認識されるようになります。
昭和初期に技術革新が相次ぎ、酒造が近代化・効率化するかと思われました。しかし、昭和14年に米の統制が始まり精米が制限され酒造は統合・縮小されました。
昭和18年には級別制度が制定され、第2次世界大戦を経て、各地における酒造りの復興が始まりました。
平成元年に級別制度が見なおされ、平成4年に全廃となります。そして特定名称酒等のような現在のスタイルに変更され、日本酒新時代を迎えるようになりました。
神様と私を繋ぐ日本酒
例えば、神社で行われるお祭りではお供え物として日本酒が捧げられ、ご神事が終わると「おさがり」として私たちも神様のご相伴にあずかることがあります。
今でも、各家庭の神棚では、日本酒と水と塩と米をお供えしています。
(沖縄では日本酒ではなく泡盛をお供えします。)
神話の中にお酒の話がよく出てくることからも分かるように、日本酒は私たちと神々をつなぐ、大切な存在なのです。
日本酒を飲む場面として、かつては豊穣祈願といった神事の際に限られていました。神社などで振る舞われる日本酒は現在でも「お神酒(みき)」といわれ、日本酒と神事は今も深くかかわっています。
現代の日本においても、お正月に節分、お花見にお月見と、季節の節目を祝ったり、季節ごとの表情を楽しんだりする行事がたくさんあります。結婚式といった祝い事にも日本酒は欠かせません。祝賀会の鏡開きや、結婚式の三々九度など、行事やお祝いの席で日本酒をいただきます。
日本酒は「酔うため・楽しむため」だけのお酒ではなく、「日本の神々と暮らす」ために必要な存在でもあります。
日本酒は日本人とともに文化や歴史を育んできたといえるでしょう。
たまには、日本酒の縁起、自分との縁起を感じて飲みませんか?
参照・引用・出典